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白い頭の少年随想記①

白い頭の少年随想記②


白い頭の少年随想記①      内田俊夫

 昔の思い出話をさせて頂こうと思います。
1)7p.m. 21 Oct.1951(昭和26年) <小生25歳> その日は日比谷公会堂でかの有名なMr. Yehudi Menuhinの演奏会があったのです。小生は何処からチケットを手に入れたのか全く覚えておらず、覚えているのはBruchとBeethovenのViolin ConcertoをMr. Yehudi Menuhinが弾きアンコールとしてBachの無伴奏Partitaを1~2曲演奏、その素晴らしかった事は覚えています。もう一つ良く覚えているのは、1982年10月21日の新聞に載った「靴磨き音楽少年よ どこに」と云う新聞記事です。この記事によると(1951年)10月15日来日してから東京、九州、北海道など各地で26回の演奏会を開いたMenuhinは帰国するに当たって一丁のViolinを置き土産にして行った。このViolinには町で靴をみがく少年との間に一つの約束があったそうです。19歳で日頃音楽に憧れていた少年は佐世保市に住んで靴をみがいて10円、20円と積み立てて二ヶ月かけて八百円のチケット買う事が出来た。


 Menuhinはこの少年の話を聞き「サインでもしてあげよう」と佐世保駅のホームで待っていると現れた少年はクツズミだらけの気の毒なセムシだった。「よく此の身体でかせいで聴きにきてくれた」と感激したMenuhinはブロマイドを贈っただけでは物足らず「何か欲しい物はないの」と何度も尋ねた。少年はとうとう小さな声で「Violin」と答えた。その後忙しい日程後帰国の日が来た。やっとホテルで日本製Violinを取り寄せて少年のViolinを選び、そのケースに「馬場少年の幸運を祈る」とサインした。Mr. Menuhin談として「ぜひ一度訪れたいと思っていた日本へ来ることができ、実にうれしかった。馬場少年を始め日本の音楽愛好者は心の暖まる人達ばかりで、私の音楽を全身で聴いてくれた。私の一番楽しい思い出となるだろう。皆さんどうも有難う。また日本に来ます」


 その後再来日したMenuhinが「三十年前にViolinを贈った佐世保市の少年にぜひ会いたい」と望んでいましたが、何処に住んでいるのかなかなかつかめなかった。それが千葉の銚子市内の救護盲老人施設で健在だった。母の死後、九州を離れハンディと闘いながら各地を歩いたが、この間の事情については多くを語らない由。Menuhinから贈られたViolinは弦は切れ、指板も折れているが佐世保駅で写してもらった写真を今も大切に持っているそうです。(つづく)


白い頭の少年随想記②  内田俊夫

Herr Gerhart Hetzelの事

1991年の9月21日(土曜日)の東京芸術劇場でWiener Kammerensemble Concert Schedule in Japan 1991が開催された。Mozart没後200年記念特別プログラムで、オール・モーツァルト・プログラムとして


W. A. Mozart / Divertimento No.7 K.205
W. A. Mozart / Klarinettenquintett "Stadler" K.581
W. A. Mozart / Divertimento No.17 K.334


が演奏された。
勿論Wien Kammerensembleの事ですから美しく艶やかなMozartで、感動のあまり涙する所すらありました。特にHetzelさんのNo.17には堪らない程の優しさと美しさがあり終演後もなかなか立ち去りがたく家内共々手が痛くなる程拍手しました。それからどのくらい日にちが経ったのか忘れましたが、恐らく新聞で見つけたと思いますが、Hetzelさんが亡くなった事を知り我々は泣きました。新聞によると高い山だったのでしょう、足を滑らしてviolinを弾く関係で、草にも捕まらなかった由に聞きました。今でもMozartを聴くとHetzelさんの事を思います。それでウィーン・フィル友の会のメンバーであった私は何とかしてお花でもものを差し上げたく小切手と私の下手なドイツ語で文章を書きFLUGPOSTとしてWienへ送りました。後日奥様から黒で縁取られ中に自筆の文章が書かれたMailが届きました。ここにHetzelさんの奥様から頂いた文を載せて頂きます。

Dear Prof. Uchida!
I want to send you my heartful and special thanks for your kind letter and the great gift. I bought a wonderful great flower-bouquet in lovely colours and it is like beeing in a summer-garden, a bright shining in dusty harvest-days. It is good for us to thank, that so many people all over the world remain in a thanksful memory to Gerhart Hetzel.
The best wishes to you, to your family and to the friends, loving the music of Gerhart Hetzel.
Yours sincerely
Regula Hetzel

 奥様の文を読ませて頂き私の心は落ち着きましたと同じように出来うる限りHetzelさんの隣で真剣にsecondこなしていた若いJosef Hellさんの演奏会には時間の許す限り、行きたいと思っています。1979年と1991年と来日しておりWiener Kammerensembleとして有名です。

 

【注】Gerhart Hetzel(ネットからの転載)
元ウィーン・フィルのコンサートマスター。
1940年4月24日、ユーゴスラヴィアのNovi Vrbas(ノヴィ・ヴェルパス)に生まれる。
1969年9月1日、ウィーン国立歌劇場およびウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の第1コンサートマスターに就任。1971年、前年に結成したウィーン室内合奏団のデビュー演奏会を、ウィーン祝祭週間(Wiener festwochen)の音楽祭にて行う。
1992年7月29日、ザルツブルク音楽祭(アバド指揮・ヤナーチェク「死の家より」)のリハーサルが早く終わったため、レグラ夫人とともにサンクト・ギルゲンからほど近いオーベナウアーシュタインへ登山に出かけたが、海抜約900m地点で転倒、10メートル下へ滑落した。岩に手をかければ助かる事故だったが、音楽家として本能的に手をかばったため頭部と足を強打したという。ヘリコプターからの40mザイルで救出され、ザルツブルク救急病院に運ばれたがそのまま息をひきとった。
遺骸はヴィーン郊外の Maurer Friedhof に埋葬された。

 
 
 
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